身体が「No」と言う前に、心と身体に聞いてみたいこと

この間、「人生初の海水浴をしてみたい」という日系ブラジル人の80歳の友人と、伊豆を旅してきました。
海に入って、波しぶきに遊ばれている彼女の笑顔も最高だったのですが、なぜか私がいちばん心惹かれたのは、夕日を見るために訪れた西側の海岸で、岩壁沿いを歩く彼女と、その岩肌が並んで見えた瞬間でした。
黒く、ごつごつした岩。
茶色や白が混じり、何層にも重なっているところ。
途中で大きく割れているところ。
波に削られて、少し丸くなっているところ。
同じ海岸に並んでいるのに、ひとつとして同じ形をしていません。
もともとこういうものを見ると、マニアックですが、私はつい足を止めてしまいます。(笑)
「これ、どうやってできたんだろう?」
調べてみると、伊豆半島は、もともと今よりずっと南の海にあった海底火山などが、長い時間をかけて北へ移動し、本州にぶつかってできた場所なのだそうです。
海の底で火山が活動し、地層が積み重なり、押され、持ち上げられ、地上に現れ、そのあとも風や雨、波に削られてきた。
私がその日眺めていた岩肌は、突然あの形になったわけではありません。
今見えている姿は、
長い長い物語の、ほんの「現在地」にすぎない。
そう思った時、その岩肌のそばを歩く彼女の姿が、なんだかいつもより深く心に残りました。
80年。
私には想像しきれないくらい、たくさんの時間がそこにあります。
ブラジルで過ごした時間。
日本に来て、必死に働いてきた時間。
うれしかったこと。
しんどかったこと。
出会った人。
別れた人。
選んだこと。
選べなかったこと。
笑った日も、きっと、耐えた日もあったはずです。
でも今、私の目の前にいる彼女もまた、その長い長い物語の「現在地」にいる。
そう考えると、
人も、岩と少し似ているのかもしれないな
と思いました。
今見えているその人だけを見ても、そこに至るまでに何があったのかは分かりません。
どんな風に吹かれてきたのか。
どんな波を受けてきたのか。
どんな場所で、自分を守りながら生きてきたのか。
岩肌にひとつひとつ違う歴史があるように、私たちの今の姿にも、ここまで生きてきた時間が刻まれているのかもしれません。

「なんで私はこうなんだろう」の前に
私たちは、自分のことになると、つい「今見えている姿」だけで判断してしまいます。
人の顔色を気にしすぎる。
頼まれると断れない。
助けてもらうより、自分でやった方が楽。
疲れていても、まだ動ける。
頑張り続けたあと、突然何もしたくなくなる。
そして、
「なんで私はこうなんだろう」
「もっと変わらなきゃ」
「また同じことをしてる」
と、自分を修正しようとします。
でも岩を見て、
「なんでそんなにデコボコしてるの?」
「その割れ目、早く直した方がいいよ」
とは、たぶん言いません。(笑)
むしろ、
「どんな歴史があったんだろう?」
と知りたくなる。
あなたにも、
「これは私の性格だから」
と思っている反応はないでしょうか。
もしあるなら、その反応にも同じまなざしを向けてみるのはどうでしょう。
「なんで私はこうなの?」ではなく、
「この反応ができるまでに、どんな時間を辿ってきたんだろう?」と。

子どもは、その場所で生きられる自分をつくる
このサイト「頭心大」では、これまでにも何度かACEについてお伝えしてきました。
もともとこの場所は、ACEサバイバーの方が、自分の心や身体に起きていることを責めるのではなく、少しずつ理解していける場所をつくりたい、という思いから始まっています。
なので、すでに知っている方もいるかもしれませんが、ここであらためて簡単に触れておきたいと思います。
「ACE(エース)」
正式には Adverse Childhood Experiences。
日本語では「逆境的小児期体験」と訳されます。
簡単に言えば、
子ども時代に経験した強いストレスや、安心・安定を揺らがすような環境と、その後の心や身体とのつながりを考える時に使われる言葉です。
子どもの頃の体験は、その時だけで終わるとは限りません。
その環境を生き抜くために身につけた反応が、後遺症のように大人になってからも、人との関わり方やストレスへの反応、心や身体の健康に影響することがあります。
そしてACEは、決して一部の特別な人だけの話ではありません。
日本の成人を対象にした研究でも、調査方法によって差はありますが、少なくとも1つのACEを経験した人がおよそ4割いるとする報告もあります。
つまり、「こんな反応をするのは自分だけ」という話でもないのです。
日本でのACE研究について詳しく知りたい方には、『ACEサバイバー 子ども期の逆境に苦しむ人々』という本もあります。
また、米国の一部の医療現場では、ACEが問診の一つとして使われることもあります。
ただ点数だけを見るのではありません。
どんな体験があったのか。
今、心や身体にどんな影響が表れているのか。
安心できる人や環境など、支えになるものはあるのか。
そうした背景も見ながら、必要に応じて支援につなげていきます。
つまりACEスコアは、
「何点だから、あなたはこういう人です」と決める数字ではなく、その人の背景を理解するための入り口の一つ。
私はACEについて学ぶ中で、数字以上に強く感じることがあります。
子どもは、その場所で生きられる自分をつくる。
家の空気が誰かの機嫌によって変わるなら、表情や声色を素早く読むようになることがあります。
「嫌だ」と言うと関係が悪くなるなら、自分の気持ちより相手の希望を先に考えることもある。
困った時に助けを求めても誰も来ないなら、
「自分でなんとかする」
という方法を覚えることもあります。
大人になった私たちは、それを、
「気にしすぎ」
「頑張りすぎ」
「人に頼れない」
と呼ぶことがあります。
でも、それは本当にただの性格なのでしょうか。
もしかすると、
その環境の中で生きるために、心と身体が覚えた方法
なのかもしれません。
心にも、育つための栄養がある
心理療法には「中核的感情欲求」という考え方があります。
少し難しい名前ですが、私はこれを、
心が育つために必要な栄養のようなものだと考えています。
身体が育つのにタンパク質など栄養が必要なように、心にも必要なものがあります。
安心して誰かとつながること。
泣いた時に誰かが来てくれること。
「怖かったね」と気づいてもらうこと。
「嫌だ」と言っても、関係がなくならないこと。
自分で選び、やってみること。
笑うこと。遊ぶこと。
自由に子どもでいられること。
そして、守られるための適切な境界(バウンダリー)があること。
でも、それが十分に得られない環境もあります。
そんな時、子どもは、
「私の中核的感情欲求が不足しています」とは言いません。
そんな5歳児がいたら、かなりびっくりします。(笑)
代わりに、その場所で生きていけるように自分を合わせます。
泣かない。
怒らない。
迷惑をかけない。
役に立つ。
空気を読む。
頑張る。
自分のことは自分でする。
痛くても、大丈夫な顔をする。
それは弱さではありません。
その時に使えるものを総動員して、
生きる方法を身につけていった。
そう見ることもできます。

「大丈夫」にするのが、上手すぎた
私は自分のACEスコアがかなりハイスコアなのは知っていました。
そしてACEについて学んでいくと、それが「心の傷」だけの話ではないことも知りました。
米国で行われた大規模なACE研究では、ACEを4つ以上経験した人は、ACEが0の人と比べて、
虚血性心疾患は2.2倍。
がんは1.9倍。
脳卒中は2.4倍。
慢性気管支炎・肺気腫は3.9倍。
抑うつ状態は4.6倍。
自殺未遂は12.2倍。
それぞれを経験している統計上のオッズが高かったと報告されています。
さらに、その後の追跡研究では、ACEを6つ以上経験した人は、ACEが0の人よりも、亡くなった年齢が平均で約20年早かったという結果も出ています。
もちろん、これは
「ACEスコアが高ければ病気になる」
「あなたの寿命は短くなる」
という予言ではありません。
ACEと健康との間に関連が見つかっているという話であって、特定の病気の原因をACEだけで説明することはできません。
身体の健康には、遺伝や生活環境、生活習慣、その後の人とのつながりや支えなど、たくさんのものが関わっています。
それでも私は、この研究を知ってから、
「子どもの頃の体験は、心だけではなく、身体とも無関係ではないんだ」
ということを意識するようになりました。
私は自分のACEスコアが高いことに加えて、トラウマや心と身体について学ぶ中で、
自分は、身体からのサインをかなり小さく受け取るタイプなのではないか、と以前から感じていました。
それで、「いつか病気になるだろう」というより、
「身体が小さく出しているサインに気づけないまま、大声を出さざるをえないところまでいくことがあるかもしれない」
とは、なんとなく予想していました。
そして最近、それをあらためて身体から教えてもらう機会がありました。
そこで、ひとつ気づいたことがあります。
私は昔から、「痛みに強い」と思っていました。
でも今は、少し違う見方をしています。
私は痛みに強いのではなく、
痛みを遠くに置くのが、とても上手だったのだと。
子どもの頃、
痛い。
怖い。
寂しい。
しんどい。
そんな感覚を誰かに預けることが難しい環境にいると、
「痛い」
↓
「誰かを呼ぶ」
↓
「助けてもらう」
ではなく、
「痛い」
↓
「自分でなんとかする」
という回路を覚えていくことがあります。
私もきっと、
「大丈夫にする力」
をかなり鍛えてきたのだと思います。
その力が必要だった時もあるし、そのおかげで前へ進めたこともたくさんあります。
だから、この力そのものを悪者にはしたくありません。
ただ、痛みには少し面白い仕組みがあります。
私たちは、身体から届いた刺激を、そのまま同じ大きさで「痛み」として感じているわけではありません。
脳や神経には、痛みの信号を弱めたり、反対に強めたりする、いわば「音量調整」のような働きがあります。
同じような刺激でも、
小さな音量で受け取ることもあれば、
大きな警報のように感じることもある。
この仕組みに自分の経験を重ねた時、少し腑に落ちました。
私には、痛みのボリュームをかなり下げて受け取る傾向があったのかもしれない。
だから、
「少ししんどい」と「まだ平気」の境目が、
分かりにくかったのだと思います。
もし私と似たような「痛みのボリューム感覚」を持っている人がいたら、覚えておいてほしいことがあります。
我慢できることと、身体に負担がないことは、同じではない。
「耐えられる」
「まだ動ける」
「これくらい大丈夫」
それは必ずしも、
身体まで「大丈夫」と言っているという意味ではありません。
でもだからと言って
「どうしてもっと早く気づけなかったんだろう」
と自分を責める必要もありません。
身体の声を聞けなかったことにも、きっと理由があります。

身体の声を聞けなかったのにも、理由がある
ヨガやピラティス、ボディスキャンなど、身体の感覚に意識を向ける方法があります。
肩は力んでいないか。
呼吸は浅くなっていないか。
胸やお腹は、どんな感じがするか。
身体の小さな反応に気づくことは、とても大切です。
でも、ここで一つ覚えておきたいことがあります。
身体の声を聞けなかったからといって、自分を大切にしていなかったとは限りません。
聞こえなくすることが、
その場所で生きるために必要だった人もいます。
痛い。
怖い。
疲れた。
本当は逃げたい。
そう感じても、そこから離れられない。
誰かに助けを求めることもできない。
そんな環境では、
感じる量を小さくすることが、その日を乗り切る助けになることがあります。
だから私は、これまでの自分に、
「もっと身体の声を聞けばよかったのに」
とは言いたくありません。
あの頃はきっと、
聞こえなくすることも、生きるための方法だった。
でも、今いる環境が昔と同じではないのなら、
身体が大声を発せざるをえなくなるまで、待たなくてもいいのかもしれません。
「ちょっと疲れた」
「少し休みたい」
「これは少し嫌かも」
「今日はここまでにしたい」
昔は聞こえない方が安全だったそんな声も、
今はもう、少しずつ聞いても大丈夫なのかもしれません。

「頼れない」のではなく、Needを探す習慣がなかった
最近、自分についてもうひとつ面白いことに気づきました。
私は、人からの助けを受け取れないわけではありません。
むしろ、誰かが具体的に何かをしてくれた時は、とても嬉しい。
でも、
「何か必要?」
「何したらいい?」
と聞かれると、急に何も思いつかなくなることがあります。
頭の中の検索画面が真っ白になる感じです。(笑)
以前は、「私は人に頼るのが苦手なんだ」と思っていました。
でも今は、少し違います。
頼んではいけないと思っているというより、
「自分には今、何が必要なのかを探して、それを誰かに預ける」
という経験が少なかったのだと思います。
ずっと、
「誰かにしてもらう」より、
「自分でなんとかする」
という回路を使ってきたからです。
だとしたら、
「人に頼れるようにならなきゃ」と頑張るより先に、
「私は今、何が必要?」
と、自分に聞くところから始めてもいいのかもしれません。
頭がYESと言う時、身体は何と言っている?
私が好きな本で、ガボール・マテの『身体が「ノー」と言うとき』という本があります。
この本は、慢性的なストレスや、自分の感情や限界を抑えて生きることと、心身のつながりについて考察されたものです。
私はこれを、
「感情を抑えたから病気になる」
という単純な話としては受け取りませんでした。
身体の状態には、遺伝や環境、生活習慣など、たくさんの要因があります。
ACEスコアが高いから特定の病気になる、ということでもありません。
それでも、この本を読みながらひとつの問いが残りました。
「自分がYESと言っている時、本当に身体もYESと言っているだろうか?」
頼まれごとをされて、
「大丈夫だよ」と答える。
でも、肩が少し上がる。
予定表を見ながら、
「これくらいいける」と思う。
でも、ため息が出る。
「別に平気」
と思っているのに、
お腹がきゅっと固くなる。
頭はYES。
口もYES。
でも、身体だけ少し違う返事をしている。
そんな時があります。
身体は、
「大変申し上げにくいのですが、こちらの予定について再検討をお願いできますでしょうか」
なんて丁寧なメールは送ってくれません。
その代わり、
胸。
喉。
肩。
呼吸。
お腹。
眠気。
疲労。
落ち着かなさ。
そんな言葉で、小さなメモを残します。
そう考えると、
身体は、自分が生きてきた時間を書き留めているノート
みたいなものなのかもしれません。
焚き火が教えてくれる、ちょうどいい境界線
私はキャンプが好きで、よく焚き火をします。
ぱちっ。
ぱちぱちっ。
オレンジ色の炎が揺れる。
少し寒ければ、椅子を前へ動かす。
じんわり暖かい。
気持ちいい。
でも、少し近づきすぎると頬が熱くなる。
すると身体は、自然に少し後ろへ下がります。
誰かに教えてもらわなくても、
身体はちゃんと知っています。
ここは心地いい。
ここから先は、ちょっと近すぎる。
これって、バウンダリーに似ているなと思います。
バウンダリーとは、自分と相手との間にある「境界線」のことです。
でも「境界線」というと、相手を拒絶したり、高い壁を作ったりするイメージを持つ人もいるかもしれません。
私はむしろ、
焚き火の前で椅子を前後に動かすことに近いと思っています。
近づいてはいけないわけではない。
離れなければいけないわけでもない。
その時の自分にとって、
どこなら安心してそこにいられるのか。
それを確かめるための境界線です。
焚き火との距離も、いつも同じではありません。
寒い夜なら近づく。
火が強くなれば離れる。
風向きが変われば、椅子の位置を変える。
一度決めた場所に、ずっと座り続けなくてもいい。
人との関係も似ています。
今日は話したい。
今日は一人でいたい。
ここまでは手伝える。
これは今は引き受けられない。
バウンダリーは、
「あなたが嫌いだから離れます」
という宣言ではありません。
「私は今、ここなら安心してあなたと一緒にいられます」
という、自分の位置を知ることでもあります。
ところが、相手の気持ちを優先することに慣れていると、
この「自分の位置」が分からなくなることがあります。
本当は少し熱い。
でも、
「せっかく誘ってくれたから」
「断ったら悪いから」
「これくらいみんなやっているから」
と、その場に座り続ける。
焚き火なら頬が熱くなった時点で椅子を下げるのに、
人間関係や仕事になると、なぜか火傷寸前まで座ってしまうことがあります。(笑)
だから、
「どこまで我慢するべき?」
と頭だけで正解を探すより、身体にも聞いてみる。
この人と話している時、呼吸はどうなっているだろう。
この予定を考えた時、胸はどう感じるだろう。
「大丈夫です」と答えた時、肩はどうなっているだろう。
身体は時々、頭より先に、
「ちょっと近いよ」と教えてくれます。
そして、近すぎたなら、
返事を明日にする。
今日は会わない。
全部を説明しない。
「今回は難しい」と伝える。
少し一人になる。
どれも、椅子の小さな移動です。
バウンダリーは、大げさな絶縁宣言ではなく、
「私は今日はここに座ります」
という小さな選択の積み重ねなのだと思います。
そして、その距離を教えてくれるものの一つが、Needです。
「少し休みたい」
「今日は静かに過ごしたい」
「手伝ってほしい」
「これは嫌だ」
そんなNeedが分かると、
自分に必要な境界線も少し見えやすくなる。
Needが分からなければ、どこに椅子を置けばいいのかも分かりにくい。
身体の声を聞くこと。
Needを知ること。
自分に合ったバウンダリーを選ぶこと。
これは、別々の話ではないのだと思います。

今の形には歴史があり、心地よさにはちょうどいい距離がある
もし今、ほんの少し時間があったら、
答えを出そうとせずに、身体を観察してみてください。
肩はどうでしょう。
呼吸は、どんなリズムでしょう。
胸やお腹は、どんな感じがするでしょう。
最近、
少し「近すぎる」と感じているものはありませんか。
仕事。
人間関係。
予定。
誰かからの期待。
あるいは、自分の中の
「もっと頑張らなきゃ」という声かもしれません。
何か反応があったら、
その奥にあるNeedも、少しだけ探してみてください。
「休みたい」
「少し離れたい」
「手伝ってほしい」
「今日はここまでにしたい」
すぐに答えが出なくても大丈夫です。
長い間、自分のNeedを探す習慣がなかった人なら、
検索結果が出るまで少し時間がかかることもあります。
私もこれから、
身体が大声で「No」と言うまで待つのではなく、
その手前にある小さなNeedにも気づいていきたいと思っています。
昔は、痛みを感じないことや、自分でなんとかすることが、
その時の自分を守ってくれていた。
だから、身体の声が聞こえなかった自分を責めなくていい。
今は少しずつ、
焚き火の前で椅子を動かすように、
自分に合った距離を選び直していけばいい。
伊豆の岩肌は、
「今の形には、そこまでの時間がある」
ことを教えてくれました。
焚き火は、
「心地よさには、その日の自分に合った距離がある」
ことを教えてくれました。
だからこれからは、
「なんで私はこうなんだろう」ではなく、
「ここまでに、何があったんだろう」
「まだ頑張れる?」ではなく、
「身体は何て言ってる?」
そして、
「もう無理」になる前に、
「今の私には、何が必要?」
と聞いてみたいと思います。
80年生きてきた友人も、
伊豆の岩肌も、
今ここに見えている姿だけが、そのすべてではありません。
私たちもきっと同じです。
今の自分を急いで削ったり、直したりする前に、
ここまでの時間を少し振り返り、
今の身体が必要としているものを聞いてみる。
身体が大声で「No」と言う前に、
小さな「Need」に気づけるように。








